犬とベイビー②

演習場で一人、いや一匹。イルカは考えていた。
さて、どうしようか。
嗅覚の能力が広がった為か、いつも以上に空気の匂いが違う。
空を向いて鼻を鳴らし、取り敢えず気が向く方に足を進めた。
風や草花の匂い、土の匂い。鼻を地面に付けて歩く。思い切って走ってみる。最初はぎこちなかったが、四つ足で土を蹴るように走ると無性に楽しくなってくる。
不意に匂いが変わり、イルカは足を止めた。
演習場裏手にある森の中は光が届かない為か地面も薄っすら濡れている。
嗅いだ事のある匂いだが、敏感になり過ぎているのか、何の匂いか見当がつかない。
ゆっくり歩き、ポタ、と目の前に何かが落ちた。
それは地面にじんわりと吸い込まれ、色をなさい。
鼻を近づけて嗅ぐ。
……!これって。
「いいものみーつけた」
背中からガバリと捕まれた。気配に気がつかず驚いて暴れれば、イルカの短い手脚がバタバタと空を掻いた。
何が起きたのか分からない。暴れながら周りを見渡し、目の前にぬっと現れた面に怯え思わず吠えた。
「うわ、意外におっかねーな、コイツ」
面を付けた男が面白がった口調でイルカを見る、面の半分には返り血が付いていた。
さっき嗅いだのはこの男に着いた血液か。
この面…。
獣の面で素顔を隠したままの相手を改めてマジマジと見た。
「どうした」
別の面を付けた男が背後に立てば、イルカを持った男は持つ腕を上げた、
途端身体がブラブラと揺れ不安定になりイルカは再び暴れた。
「犬。ちょうど忍犬欲しかったからさ、これ手頃じゃない?」
イルカは愕然とした。
に、忍犬?ふざけるな!
更に暴れるイルカを見て笑いを零した。
「根性ありそうじゃん。俺の変わり身になってよ」
垂れた耳を触られて再びイルカは吠えた。
何で言い草だ。忍犬にそんな使い方は許せない。
同時に深く知る事のない「暗部」に恐怖も感じた。噂には聞いていたがイルカ自身接触した事もない。彼らは火影から単独で任務に就いている、感情を持たない、心なき忍びだと認識していたがーー。
「やめとけ、まだ小さい。…足手纏いだ」
「小さいから慣らしがいがあるんだよ。死んだら捨ててくからさ」
「…好きにしろ、見失う。急ぐぞ」
冷淡な感情にイルカは青くなった。
ぶわりと恐怖心が広がる。
自分は人間元い、同じ木の葉の忍びであって犬ではない。
だがそれを伝えようにも手段がない。必死で抵抗をすると、暴れる手脚を軽々持ち上げられ面が近づいた。
「ホントに殺すぞ。大人しくしてろ」
声には静かに殺気が込められていた。
抵抗しただけで殺すなんて。しかも自分は見た目は小さな仔犬だ。非道にも程がある。
背筋を冷たいものが走り、動かしていた手脚が動かなくなる。
「お、物分かりいいね」
頭は良いのか、と納得気味につぶやき、男はイルカを片腕に抱えると、素早い動きで木々を抜けていく。当たり前だが、中忍である自分とは比べ物にならないくらいに早く、正確だ。
妙に感心している内に木の葉内の森を抜け国境付近へと移動していた。
景色も殺伐とし、動物さえいないような重い空気を含んでいた。
木の葉の暗部はイルカを抱えている男を含めて四人。それぞれ音もなく足を止め木の枝に留まった。イルカが人間であればじっとりとした汗を額にかいていた。犬である故かそれはないが、不気味な殺気に身が竦んだ。
怖い。
素直な気持ちだった。
紅に犬にされて、森を散歩して、同胞に捕まり、気がつけば緊迫した空気に晒されている。
なんて厄日か。
それより生きて帰れるのかも定かでなくなってきている。
自分が犬嫌いなばっかりにーー。

「それは返してもらおう」
木の葉の1人が何処かに向かって口を開いた。おそらくこの部隊の隊長。落ち着いた物腰だった。
暫くして、離れた大木からゆるりと身を半分出した忍びは、両手を上げた。
身なりからして、他の里の暗部。水面下での交戦をしているらしい。
「悪いな、返すつもりはないよ」
殺気が漂う中、敵はのんびりとした口調を発した。
「つまらない事でお互いに命を削る事はないじゃないのか」
「つまらない事ではないさ。木の葉は相変わらず愚かな台詞を吐く」
イルカを抱えていた男がピクリと身体を動かし、「殺りましょう」と、囁いた。
「…仕方ないね」
ため息交じりに隊長であろう男が言うと、片手にクナイを持った。
「そうこなくっちゃ」
イルカを抱えた男は楽し気に囁いてイルカを木の枝に置いた。
「ここにいろ」
え、ここ!?
イルカは慌てた。10メートルはある高さの枝に置かれ、身動きが取れない。チラと下を見下ろせば遥か下に見える茶色い地面。脚がガクガクと震えた。
高所恐怖症ではなく、イルカ本来の姿であれは物ともない高さだか。今は慣れない犬の姿であり、どう動けばいいのかも分からない。
男はイルカが怯えるのを知る由なく相手に向かって木の枝から飛んだ。
待ってとも言えずにイルカはただ、震えながら男を目で追った。
木の枝の皮に爪を立て、落ちないように立っているしかない。
木の葉と相手は交戦を始めていた。正直どちらが優勢かなんてどうでも良くなっていた。
家に帰りたいーー。
泣きそうになりながら、手脚をジッとするように集中する。
落ち着け…落ちないように…。
くそ、何でこんな事に…。
イルカはため息を零した。
その刹那、銀色に輝くクナイがイルカを掠めた。何処から飛んできたのか分からない。気が付いた時には頬のあたりを掠め、瞬間イルカはバランスを崩した。
落ちる……!
思った時には既に身体は宙に浮き、重力のまま落下していた。木の幹に何回か身体をぶつけ、堪らず声が出た。スピードは緩んだが、止まらない。そのまま地面へ叩きつけられた。
全身に感じた事のない痛みと衝撃が走る。
冷たい地面の感触に顔を上げるが、視界がボヤけた。
頭は打っていないから、大丈夫…身体は…。
立ち上がろうと身体に力を込め、顔から地面に力なく倒れる。
視界が暗くなりーーイルカは気を失った。



痛い…。
身体の痛みを感じながら次第に回復する意識の中、薄っすらと目を開けた。
無意識に動いた前脚に痛みが走り、ギャン、と鳴いた。
そうか、…俺、確か…木から落ちて…。
「平気かい?」
視界一杯に現れた獣の面に心臓が飛び跳ねた。
あいつだ。まだ、あいつに捕まったままだった。
面を見て反射的にパニックに陥り、イルカは痛む身体で逃げようと暴れた。
「うわっ、ほら、大丈夫だよ。もう君の家の近くじゃないかな」
え、家…?
その言葉に動きを止めて。辺りを見渡せばイルカが捕まった演習場の裏手の森だった。
「…なるほど、アイツが言ってた様に君は賢いね」
人間の言葉を正しく理解している様に感心したように、男がイルカの身体を撫でた。
改めてその男を見上げれば、先ほど自分を捕まえた男とは違う面だと気が付いた。声から記憶するに、暗部の部隊の隊長をしていた男だ。
「君を捕まえた男はね、怪我して病院なんだ。だから、俺が代わりに君を戻しに来た。…大丈夫だよ。忍犬にはしない」
その面をじっと見つめていると、笑いを零した。
「怪我も大したことないみたいだから、…じゃあ俺は行くね」
そっと地面に置かれ、その男は立ち去った。
見えなくなるまで見つめて、既に辺りは暗く、闇が染み入るように辺りを包んでいた。
イルカは軽く息を吐き、思い切って身体を動かす。
男が言った様にそこまで酷い怪我はないようだ。ただ、右の前脚は多少痛む。
ゆっくりと、庇うように歩き出した。
良かった。あの男は親切だった。イルカを捕まえた男は平気で自分の命を潰そうとしていた。
思い出し、身震いした。
慎重に行動しよう。
紅の言っていた約束は明日の朝。まだ時間がある。
グゥ、とお腹が鳴った。
腹減ったな…。
しかも寒い。毛皮に覆われているが時期は冬。冷たい地面に脚がじんわりと冷たさを増していた。
ひょこひょこと歩き、演習場を通り過ぎる。
自分の家に取り敢えず帰ろう。
裏路地を歩き、商店街の表通りに出た。明るく、いい匂いがイルカの鼻を刺激する。
「わっ、」
誰かの足にぶつかった。イルカが顔を向ければ男の子が目を丸くして見ていた。
見知った顔だった。が、イルカは一瞬躊躇した。
それは、イルカが教えている生徒の一人でしかもーー犬が嫌い。
「うわっ!あっち行け!!」
思った通り、男の子は大声でイルカに叫んだ。近くにある石をイルカ目掛けて投げる。
イルカは後退り、先ほどきた裏路地に入り、走って逃げた。
男の子を責める訳にもいかない。
自分と同じ犬嫌いの生徒。ーーそう、自分と同じ嫌いなだけで。
前脚を庇いながら息を整える。
悲しくて仕方がない。
視界が少し滲んだ。涙だろうか。犬も泣く事があるんだろうか。
石を投げるような事はしなかったが、自分も同じだ。同じように犬を苦手だからと毛嫌いして。あの生徒となんら変わりない。
頭を垂らしながら歩いて、ふと顔を上げる。

目が合った。
少し先に見える裏通りの道にいる男と。

その男の腕には、女がもたれるようにくっついていた。ジッとこちらを見ている。
イルカはその男を知っていた。
紅と同じ、下忍の部下を持つ上忍であり、パックンの飼い主。
はたけカカシ。
イルカはカカシが苦手だった。
元生徒を預ける身として、良い噂を聞く事がないカカシに不信の念を抱いていた。実際目にしていても同じで、いつも不謹慎な本を持ち歩き、傍にはいつも女の姿。
任務態度も不真面目だと、カカシにつく部下になった生徒からも聞かされていた。
話をしても、聞いているのかいないのか。面と向かってきちんと話をした記憶すらない。

今日もしっかり女の人と歩いてるんだな。
カカシを見て嘆息した。
何でそんなジッと見るんだ。早く行けよ。
内心毒付いてイルカは脚を進めた。そんな事より腹が減って仕方がない。
目の前がフッと陰り現れた大きな足にギョッとした。
慌てて顔を上げるとカカシに見下ろされている。相変わらず表情の読めない顔に、思わず後ずさった。
前から歩いてきたのに、気配すら感じなかった。何しに来たのか知らないが、関わりたくない。
イルカはカカシの横を通り過ぎようと隅に身体を移動させると、カカシの足が塞ぐように動いた。
ムッとしてカカシを見上げれば、
「カカシ、どうしたの?」
腕を組んでいた女の声がした。
「ちょっとね」
「なぁに?…犬じゃない。…なんか汚いわね」
イルカをカカシの横から覗き込み、眉を顰めた。
そうなのかもしれない。
森で連れ去られてから木から落下したりしたから。
犬であるのに情けない気持ちになって顔を伏せた。
「ね、そんな犬放っておいて行きましょ」
本当だよ、俺なんか放ってさっさと行ってくれ。
去るのを待つように、イルカは下を向いて待った。
「いや、いいや。もう帰って」
「……え?」
「オレ、この始末するから」
始末?
下を向いたまま耳を疑った。
顔を上げて、冷たい眼差しのカカシを見る。
「カカシ何言って、」
「いいから、じゃーね」
視線はイルカから外す事なく、片手を上げて降った。
「…知らない」
女は呆れた顔をして去っていく。
イルカはそれどころではなかった。カカシの凍るような目に全身が震えている。
な、何で。始末って何だよ。
逃げなきゃ…。
向きを変えて一歩踏み出すまでも無く、猫を掴む様に首根っこを掴まれた。
滅茶苦茶にイルカは暴れるが、意味をなさない。
それでもイルカは必死だった。
掴まれている手を噛もうと首を捻る。変化した犬とはいえ、犬歯は立派に生えている。
「無駄だよ」
カカシは表情を変えることなくイルカの顎を掴んだ。口が開かない様にグッと掴まれる。
「生きがいいね。ここで縊り殺されたいの?」
嫌な言葉だ。
昼間聞いた、あの暗部と同じ。カカシも自分を殺す気でいる。
お前は俺の手中にあると。
イルカは動きを止めてカカシを見た。
露わな右目はイルカを見て、これ以上暴れないと分かったのか、片腕に抱えて歩き出した。
この男から俺は逃げ出せるのだろうか。
家に帰るなんて思わずに、演習場で大人しくしていれば良かった。
後悔が渦巻き、カカシの腕に抱えられながらイルカは明日の身を案じた。

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。